※黒いあの虫の話なので注意
時刻は21時。それは仕事がひと段落してようやく帰宅した直後のことだった。上着を脱いで椅子の背もたれに放り投げたと同時に黒電話がジリリリリリリ、とけたたましい音を立てた。こんな夜更けに連絡を寄越す人物は限られている。なにかトラブルだろうか。帰宅したばかりだというのに。やれやれ、と思い当たる数人の顔を思い浮かべながら俺は受話器をゆっくり持ち上げた。
「はい」
『あっ!ファルマン准尉!軍曹です!』
「……軍曹?どうしたんだ、こんな時間に」
予想とは違う人物からの受電に一瞬面食らう。・軍曹。中央に来てから知り合った女性である。理由はよくわからないがどうやら俺は彼女に懐かれているらしい。俺も俺で軍曹には好意を持っているわけなので、まんざらでもなかった。そんな彼女からの突然の電話だ。
『大変なんです……!助けてください!』
電話口の声はかつて聞いたことのないほど焦っていた。とにかく、今からそっちに行くと伝えて電話を切り、軍服を脱いでその辺にあった服に着替える。
俺と軍曹のアパートはご近所さんと言ってもいいほど近い距離にある。軍に配属されてからこの方ずっと中央勤務だという軍曹にはこの辺りにある安い飲み屋だとか美味い飯屋だとか、夜遅くまで営業している食料品店などの有益な情報をたくさん教えてもらっていた。彼女の行きつけだという飲み屋の角を曲がって少し進んだところにそのアパートはある。街灯がスポットライトのようにぽつりと照らす地面に蹲る一人の女性がいた。紛れもなく軍曹だ。俺の足音が近づくのに気付いて彼女は顔を上げた。
「……ファルマン准尉!すみませんこんな時間に……」
「いや、それはいいけど。一体どうしたんだ?」
「あの……じ、実はですね……その」
急に歯切れの悪くなる様子に首を傾げる。それに、わざわざ外で俺を待っていたのも不可解だ。家の中で何かが起こっている、ということだろだろうか。
「まさか、空き巣にでも出くわしたのか!?」
「ち、ち、違います!そうじゃなくて……その、む、虫が……」
「…………虫?」
「ほらあの~、黒くてカサカサいうやつ、いるじゃないですか」
「ああ、ゴk……」
「その名前は言わないでくださいっ!!!!」
「……虫だめだったのか、お前」
たかが虫ごときで……などと言ったら怒られそうなので口には出さないでおこう。なにか事件にでも巻き込まれたのかと焦って駆けつけた俺は正直拍子抜けだった。つまり俺が呼び出された理由は室内に居るというその虫を退治してほしい、ということらしい。そういうのは先に言えよと呆れつつ自分でなんとかしろと突き放せないのは惚れた弱みってやつである。
「というか、お前中央長いんだろ?ここじゃあのゴ……いやすまん、黒いやつとは同居してて当たり前じゃないのか」
「嫌なものは嫌なんです!ぜっっっっっったい無理!断固拒否!です!!」
涙目の軍曹が必死に訴える。まあいつまでも野外で騒いでいるわけにもいかないし、この分だと彼女は夜が明けるまで家に入らないつもりのようなので、俺は仕方なく討伐を引き受けることにした。背後から俺の上着をしっかりと握りしめて離さない軍曹が「さっきまでリビングの天井に張り付いてました」と報告してくるので、小さく頷いてドアノブに手をかける。よほどの恐怖だったのか、俺の背中にかかる物理的な圧力がすごい。ギィ、と軋むドアを開けると、明かりがついたままの室内が目に飛び込んでくる。自分の部屋とは違ってすっきり整頓され、家具やカーテン等はいかにも女性の家、といった明るい配色のものが使われていた。まさか初めての自宅訪問がこのようなかたちになるとは流石に予想していなかったが、どんな理由だろうと頼られるのは嬉しいものである。
「ど、どうですか……?」
「……玄関にはいないみたいだな」
「じゃあ、まだリビングに……」
「かもな」
なんとなしにそう答えると背中の圧迫がより強く感じられる。……軍曹には申し訳ないが、俺はこの思わぬ役得な状況を楽しんですらいた。とはいえ早く片を付けてやらないと可哀想だ。おじゃましますと呟いて玄関を通り抜け、目撃証言のあったリビングに入る。ふと見上げると探すまでもなくそれは天井のど真ん中に張り付いていた。
「いたぞ、軍曹」
「え!ど、どこに!?」
「天井。動いてないみたいだな」
「ど、ど、どうやって倒したらいいんですか!?拳銃ですか!?」
「虫相手に物騒なことを言うなって……ほうきとちりとり、あるか?」
軍曹が背後を離れてそろりと玄関へ引き返し、すぐに戻ってくると俺の手にほうきを握らせた。俺は動く様子を見せない黒い虫にむかってそのほうきを叩きつける。虫はあっけなくぼとりと床に落ちた。それを見守っていた軍曹が「ぎゃっ!」と短い悲鳴を上げるのもお構いなしに数回ほど虫を叩いて、絶命したのを確認する。
「ちりとり」
「はい」
もう安全と悟ったのか、彼女はいつもの落ち着いた声音に戻っていた。思えば、軍曹があそこまで取り乱した姿を見るのは初めてだ。それなりに親しいつもりだったんだが……。少しだけ悔しさを滲ませつつ虫の亡骸を処理して「終わったぞ」と彼女を振り返ると、緊張の糸が切れたのか膝に顔を埋めては~と息を吐いた。
「ほんとに助かりました……ありがとうございます。なにかお礼しないとですね」
「いや、いいよこれくらい」
と恰好つけて帰ろうとしたタイミングを見計らったかのように、俺の腹がきゅるるるると情けない音を立てた。……そういえば、夕飯まだだったな。
「あの、もしよかったらごはん食べていきませんか。今から作るのでちょっと掛かりますけど」
「いいのか?」
「もちろんです!お礼……になりますかね」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
少し照れ臭そうに頭を掻くと、軍曹もはにかんでテーブルの席を俺に勧めた。どうやら俺はあの黒い虫に感謝をしなければならないらしい。間違っても軍曹には言えないが。この家に虫が出たおかげで俺は彼女の新しい一面を知り、そしてお礼と称して堂々と手料理にありつけるのである。
無意識のゼロセンチ::確かに恋だった