錬金術の研究は、肩こり腰痛眼精疲労との戦いでもある。特に私のようなインドア系引きこもり錬金術師の場合は猶更だ。資料の細かい文字とのにらめっこを一時休戦し、いつの間にかすんごい前かがみになっていた上半身を起こす。肩も背中も固まっていたのでぐるぐると回せばボキンと骨の鳴る音がした。壁の時計に目を遣れば、もうすぐお昼休憩の時間。……まあ、おなかすいてないしパスでいいか。幸いデスクの引き出しには非常食という名の隠しおやつも常備していることだし、食いっぱぐれて死にそうになるという事態も回避できる。
 私は食べることにあまり興味がないらしい。というのは錬金術を学び始めてから気付いたことだった。錬金術に没頭していると1日なんてあっという間に過ぎていくし、むしろ時間が足りないくらいだ。人間の時間には限りがある。1日は24時間。これは全人類に平等に与えられた概念であり、どんな大富豪でも権力者でも、ましてや錬金術師でも増やすことなどはできない神の領域ともいえる。普通に生活していたら食事や睡眠でその半分が潰れてしまうという事実を考えると、私にはどうしてもそれが勿体なく感じて、いつからか睡眠は15分~20分を研究の合間に細切れに取り、食事も腹の音が鳴りやまなくて困った時にパンを少し齧る程度の粗食になっていた。実家では母に泣きながら「お願いだからやめて」と懇願されて仕方なく封印していた生活スタイルだが、このブリッグズに配属されてからの私はそれはもう母には言えないような酷い有様だった。自覚できる程度には狂っていると、自分でも思う。それでもやめられないのはやはり私自身食に関しての興味を失していることと、短時間の細切れ睡眠でも今のところ生活に影響が出ていないのが原因だろう。
 いつものように断食を決め込んで再び資料を捲ったとき、研究室のドアが開いた。大方氷柱落としの部下が午前中の業務終了報告にでも来たのだろうと振り向きもせず作業を続ける。中尉以外で私の研究を無理やり中断させて休憩を強いる部下などいない。その中尉は今別件で地下へ潜っている。

少佐、報告書にサインをお願いします」
「ああ、はい。お疲れ様です。書類はその辺に置いておいてください。あとでサインしておきますので」
「では、実験台の上に置いておきます」
「わかりました、ありがとうございます」
「……あの、休憩はされないのですか?」
「もう少しやってからにします」
「そうですか……では、私は失礼します」

 やはりシュナイダー中尉ではなさそうだ。私が声だけで人物を特定できるのはシュナイダー中尉とバッカニア大尉だけだった。中尉は毎日長い時間ともに過ごしているから言わずもがな、大尉の場合には特徴的な声ということもあるが機械鎧のあの独特な音でわかる。……ってこれ、声じゃないな。まあいいや。ともかく中尉以外の誰かは私が作業しているとっ散らかったデスクではなく、少し離れたところにある実験台に書類を乗せていなくなった。このまま作業を続けていたらまたいつの間にか休憩時間が終わって書類にサインされてないんですが!?というクレームに発展しそうだったので、私は仕方なく顔を上げてその書類に手を伸ばす。午前中の作業でけが人や事故は無し。私はその報告書にささっと目を通してから一番下に署名した。
 氷柱落としというのは単純作業ではあるが、同時に危険と隣り合わせの仕事だった。といっても私は現場に出ることなどほぼゼロなので偉そうに語れる資格などないのだが、報告書でけが人や事故の文字を見るときはいつも少し緊張する。もし作業中に部下が命にかかわる怪我を負って帰らぬ人になったら……。もちろんそんな大事故が起これば報告書云々の前に誰かしらこの研究室に飛び込んでくるだろうけど、軽微な事故や怪我なんかではまずそのようなことにはならない。私は紙面上でしかそれを知ることができないのである。最初は氷柱を落とすだけの簡単なお仕事だなんて随分平和な部署だなと苦笑したものだが、その恐ろしさに気付いたのは配属されてすぐだった。戦がなくとも人は死ぬ。わかっていたはずだったのに、わかっていなかったのだ。……などと考え事をしていたら署名のインクが滲んでしまった。やばい。

少佐!また食事抜きですか!」

 ノックもなくドアを開けたのはシュナイダー中尉である。その陰から狼狽えた様子のファルマン少尉も顔を覗かせている。なるほど、さっき部屋に書類を持参してきたのは少尉だったのか。で、休憩のために食堂かどこかへ向かう途中で中尉に出会って私の様子を尋ねられた……といったところだろう。

「あとでにするって言っただけで抜くだなんて言ってないですよ!ねえ、少尉」
「え、あ、はい」
「貴女そう言って結局いつもいつもいつもいつもいつも抜いてるじゃないですか」
「……そうでしたっけ?」
「自覚無しですか」
「でも自覚無いってことはちょっとくらい食べなくても影響ないってことでは」
「少佐はただでさえ体力ないんですから、きちんと食べないとだめです」

 反論できずにいると無理やり立たされて上衣を着せられた。釦も閉めないうちに更にコートを着せられて、私はなすがまま中尉に手を引かれて研究室から連れ出される。あ……ああ……貴重な研究時間が……!

「あ、ファルマン少尉!」
「はっ、はい」
「書類、サインしておきました!あ、あと戸締りお願いします~」

 引きずられながらそれだけ伝えるとファルマン少尉が頭を下げるのが見えた。やっぱり先に済ませておいて正解だったな。あと数分遅かったらサインする前に中尉がやってきてこんな風に強制連行されていたかもしれない。困惑顔のファルマン少尉が目に浮かぶようだ。

「中尉、今日の昼食はなんですか?」
「いつものメニューですよ。パンと、スープに……」
「じゃあパンだけ持って戻っても……」
「そう言わず、たまには私に付き合ってくださいよ」

 これは休憩時間いっぱい解放してもらえなさそうだ。私は中尉が笑顔の裏で怒りゲージMAXなのを察知して項垂れた。





←back book next→


口を噤むしかない世界は::ハイネケンの顛末