「ファルマン准尉」

 寮の扉がノックされ、俺は読んでいた本から顔を上げた。外には寮の管理人が立っていてこちらが用件を聞く前に「マスタング大佐から電話だよ」と告げられる。……せっかく早く帰ってこれたのに、一体なにがあったというんだ。書類不備か?それとも報告書のダメ出しか?悶々と考えながら部屋を出て共用部に設置された電話を目指す。

「……はい、ファルマン准尉です」
「ああファルマン、こんな時間にすまないんだが」
「ええ」
「今から来てくれないか、大至急」
「……なにか事件でも?」
「まあ事件といえば事件だな」
「わかりました、すぐ向かいます」

 事件ならば仕方がない。俺は再び軍服に袖を通して玄関へ向かう。管理人のおじさんが「あれまた出かけるのか。夜勤かい?」などとのんびり尋ねる。適当に返事をすればまた後ろから「大変だねえ」と全然大変じゃなさそうな声に見送られた。
 1時間ほど前に退勤した司令部に再び入ると、大佐が出入口で右往左往していた。夜間の司令部はさすがに人気もまばらで、大佐は俺にすぐ気付いて走り寄る。

「すまないな」
「いえ、構いませんが……一体どうしたんです」
「歩きながら話す」

 といって大佐は早足で外に出る。聞かれてはまずい内密の話だろうか。ともあれ、わざわざ出て来たのだから付いていくしかない。俺は目的を知らされないまま後に続いた。大佐は司令部の敷地を出て、広場のある方へどんどん進んでいく。

「ど、どこまで行くんですか?」

 思わず不安になって前を行く背中に尋ねる。

のところだ」
「はあ?」

 わけがわからない。もしやさんの身になにか起こったのだろうか。いやしかし、それなら俺だけがこうして呼び出しをくらうというのも不可解なのだが。歩きながら話すなどと言っておきながら大佐は余程急いでいるのかまったく経緯を語ろうとはしなかった。目的もわからず、自分がどこへ向かっているのかすらわからない。やがて広場を通り過ぎ、街灯がぽつぽつ灯る一本道に出た。大佐はその通りの一角で徐に足を止める。

「ここだ」
「……ここ、は?」
のアパートだ」
「……そろそろ説明して頂けませんか」
が風邪で臥せっている」
「え?」
「だから、風邪で熱が……」
「ちょっと待ってください、そ、それが……事件、ですか?」
「事件だろう!は身寄りがないのだぞ!頼れるのは私とファルマン、お前だけだ!」

 大佐を頼るのはわかるが、なぜそこについ先日知り合ったばかりの自分が加わっているのか。解せない。いや内心まんざらでもない自分がいるのは否定できないが……。大佐は呆気に取られている俺を置いてさっさとアパートに入っていく。軍服で突っ立っていてはあまりにも目立つので、俺も仕方なくアパートに入った。4階建てのアパートの3階にさんの部屋があるという。クリーム色の壁紙に、ダークブラウンの階段がなんともおしゃれに映る。軍部の寮とは比べ物にならないほど綺麗なアパートだ。いや寮が汚い、というわけではなく。こう……雰囲気的なことだ。一応夜なのでなるべく静かにと願う俺の思いも空しく、一段上がるごとに階段がギシギシと甲高く鳴く。そうして3階まで来ると大佐は突き当りへと進んでいった。どうやらここがさんの部屋らしい。コンコン、と大佐がドアを軽くノックする。

、私だ」

 しばらくその場で待ってみるが、中から応答はない。すると大佐はポケットから鍵を取り出して躊躇なく鍵穴へ差し込む。えっ!と思っている間にドアは開き、大佐は中へ足を踏み入れてしまった。お、俺はどうしたら……!?女性の部屋に無断で入るのは流石に気が引ける。

「なにをしている、早く入れ」
「いえ、しかし……!」
「心配するな、にはファルマンを連れて行くと言ってある」
「え」

 なんだか、自分が置き去りのままことが進んでいるような。未だにあまり状況が把握できていないのはどうやら俺だけらしい。とはいえ、いつまでもドア前で待機していてはそれこそ目立ってしまう。結局選択肢は「自分も室内に入る」しか残されていなかった。

「し、失礼します……」

 小さく呟いて、恐る恐る敷居をまたぐ。開けっ放しだったドアを閉めると途端に室内が薄暗くなった。さんは寝ているのだろうか。奥に進むと暗がりの中、大佐の背中がほんやり浮かび上がっていた。

「まだ熱は下がらないようだな」
「大佐……まだお仕事中じゃないんですか」
「心配いらないさ。今日の仕事はほとんど終わっている」
「……でも」
「私は少し様子を見に来ただけだ。ファルマンを連れて来たから、ゆっくり休みなさい」
「えっ!?」

 さんが突然がばっと勢いよく起き上がる。リビングの出入口でそのやり取りを聞いていた俺も同じ心境だ。すでに立ち上がって出口へ向かう大佐を追って問い詰める。

「た、大佐……どういうことですか!」
「さっき言っただろう。私は仕事があって看病できん。だから代わりにお前を連れて来たんだ」
「いや一言も聞いてませんよそんなこと」
「……そうだったか……?なら、今言った。これで問題ないだろう」
「……」

 な、なんて適当な……!頭を抱えていると、後ろから小さな足音が近づいてきた。

「か、看病なんて結構ですから……それに、ファルマン准尉にうつったら大変ですし」
「なにを言っているんだ、そんなフラフラで。食事も取れていないのだろう?」
「……一日くらい平気です」
「だめだ。そんなんじゃ治らないじゃないか。いいから寝ていなさい。……ファルマン、あとは頼んだぞ、いいな」
「ま、待ってください!私はどうしたら……!?」
「決まっているだろう。の額に濡らした手ぬぐいを載せて、のために食事を用意するんだ。私は仕事を片付けたらまた寄るから、それまでお前はここに居るように」
「ちょっ……!」

 引き留めようと伸ばした右手も空しく、ドアは閉められてしまった。頭が真っ白になった俺はしばらく固まっていたが、後ろからゴホンゴホンと苦しそうな咳払いが聞こえてはっと我に返る。

「あ、あの、ファルマン准尉、帰って大丈夫ですよ……大佐には、私から言っておきますので。巻き込んでしまってすみません……」
「そんな、さんはなにも……それより、早く横になってください。熱で辛いでしょう」

 とりあえずさんをベッドに戻して、額の熱を確認してみる。きちんと計らなくてもわかるほど熱い。枕元にはすでに乾いたタオルが無造作に置いてあったので、失敬して水道水で濡らし、横たわるさんの額に載せた。結局、大佐の思うつぼになってしまったな。とはいえこんな状態で放置するのもたしかに心配である。

「……風邪、うつりますよ。ファルマン准尉」
「大丈夫ですよ。こう見えて体は丈夫ですから」
「私……迷惑ばっかりかけてしまって……」
「迷惑だなんて、私は思ってません」
「……どうしたら、ファルマン准尉にお返しできますか……?」

 お返し、だなんて考えたこともなかった。俺はただ偶然彼女が助けを求める場面に遭遇して、自分にできることをしただけだ。暗くてはっきりしないが、さんが俺を見ていることはわかる。きっとまた不安そうな顔をしているに違いない。彼女は時々どこか不安そうで酷く遠慮がちで、そのことをずっと不思議に思っていた。あんな事件に巻き込まれたせいだろうか。もしそうなら、もう辛い思いなんてさせないように守ってあげたい、などと安易に考えてしまう。……ああ、悔しいがやっぱり大佐の思惑通りだ。

「では……元気になったら、一日私にお付き合い願えますか」
「……はい……もちろん良い、ですけど、どこに……?」
「それはまだ内緒です」

 身動きしたことで少しずれてしまったタオルを元の位置に戻すと、かすかに「ありがとうございます」と聞こえた。内緒というより、まだ決めていないというのが正直なところだ。要するに完全に行き当たりばったりで誘ってしまったのだが。もちろん女性の喜びそうな場所など詳しいわけもなく、俺は口元まで布団で覆っているさんを見守りながらあれこれ思案した。そういえば俺は彼女のことをなにも知らない。名前とか錬金術師だとか、そういった基本情報のことではなく、もっとこう……好きな食べ物だとか趣味嗜好の話だ。つまるところ俺たちはまだ知り合いの域から一歩たりとも出ていないのである。

「部屋……」
「え?」
「散らかってて、ちょっと恥ずかしいです」

 そうか?と思って見回してみるが、気にするほど散らかっているようには見えない。少なくとも自分の部屋よりは断然綺麗である。

「十分綺麗だと思いますが……」
「あ、あんまり見ないで頂けると……」
「すっ……すみません」

 改めて言われて、俺はここがさんの部屋だと急に意識してしまった。要するにどこを向いても全方位にさんの私物があるというわけで……。一度意識してしまうと、気にしないという作業はとても難しい。ベッドには小さなぬいぐるみがいくつか並んでいる。窓際に置かれたテーブルには広げられたノート、そして分厚い本がいくつも積み重ねられていた。錬金術の研究だろうか。そこまで考えて再びはっと我に返って視線を戻す。いかんいかん。
 それよりも、だ。食事を用意しろと大佐に言われたが……生憎寮住まいということもあって料理にはあまり縁がない。りんごの皮を切らずに剥くことならできるのだけど。なんて、宴会芸レベルの特技を披露するタイミングでもないし。それにこんな状態のさんに無理やり食べさせてもいいものだろうか。今は大人しく寝ていた方がいいのでは?などと延々悩んでいた俺はふとさんがすでに眠っていることに気付く。……ある意味これで良かったかもしれない。とりあえず今は、彼女に幸せな夢が訪れますように。





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結末はハッピーエンドで::行き場のない言葉