当たり前かもしれないが司令部にも休憩室は存在する。ただし静けさを求める人間には向かないかもしれない。休憩室のど真ん中でわいわいとボードゲームに興じる数人の兵士とは距離を取って、俺は窓際の角の席で一人新聞を広げる。一面には「一家惨殺事件、手がかりのないまま5年経過」という見出しが大きく載っていた。――たしか、イーストシティ郊外で起きた事件だったな。夫妻に加え幼い男児が殺害され、唯一、年頃の娘だけが難を逃れたと記憶している。自分がまだ北部にいた頃の出来事なので紙面上の事しか知らないが、惨い事件だったと聞く。いや、殺人事件は惨いものだ。どれが特別などと順位付けできる類のものではない。新聞には被害者氏名が載っていたので何気なく目を通す。夫ロベルト・、妻メラニー・、長男アウグスト・…………。どくどくと、動悸が激しくなる。偶然か?たまたま、被害者と苗字が同じだった可能性は?娘の名前は新聞には載っていない。ただ、当時の年齢が15歳ということだけ記されていた。いや、同じ年ごろで苗字が被るなんて、珍しい話でもないじゃないか。だってさんは……あんなに、明るく優しい笑顔で……まさか、殺人事件の被害者だなんて……!俺は無意識に新聞をぐしゃりと握りつぶしたまま急いで休憩室から飛び出した。
「大佐!」
執務室へ飛び込むと、資料を抱えた中尉が目を丸くしている。自席で頬杖をつきコツコツと万年筆でテーブルを叩いていた大佐は俺をチラッと見ただけで再びデスクに視線を落とした。
「なんだファルマン、騒々しいな。珍しく慌てているじゃないか」
「大佐……!この、新聞の事件は……まさか……!」
喉がカラカラに乾いていてうまく口が回らない。もどかしくなり、俺はさきほど見ていた新聞を彼の目の前に叩き付ける。マスタング大佐は一瞥して表情を硬くした。それだけで俺の悪い想像が正しかったことが証明されたようなものだった。ペンを置いた大佐が息を吐いて椅子の背もたれに体を預ける。
「お前なら、名前を聞けばすぐに気が付くと思っていたんだがな。……そういえばこの頃はまだこちらには来ていなかったか」
「ええ……それに、北部の地方紙では氏名まで載っていませんでしたから……まさか、本当に、さんは」
「この事件の唯一の生存者、だ」
一瞬めまいがして、ふらふらと後ずさる。「まあ座れ」と大佐が近くにあった椅子を勧めた。どうしてそんなに冷静でいられるんだ、とやり場のない苛立ちがこみ上げてくる。全部知っていて……いや、知っていたから……?頭がぐちゃぐちゃになり、俺は半ば放心状態で倒れ込むように腰かけた。
「イシュヴァールの内戦が終わった後に担当した事件だった」
大佐がゆっくりと話し始め、俺は混乱しながらも耳を傾ける。
「氏は東部ではそこそこ有名な大富豪でね。郊外の大きな屋敷に妻と子供2人の4人で暮らしていたらしい。近所の住民からの通報で現場に駆けつけてみると広いリビングに遺体が3つ、折り重なっていた。氏、夫人、そして当時まだ3歳の長男。しかしもう一人の子供……娘の姿が見当たらなくて、現場の人間総出で探したよ。……彼女は遺体のあった部屋の、暖炉の中に隠れていた。そこで家族が一人ずつ殺されるのを目の当たりにした。切り裂かれ、内臓を抉られ、苦しみながら息絶えていくのを見ていたんだ」
遺体は何度も執拗に切り付けられた痕があったため近しい者による怨恨からの犯行とも言われている。さんはそれを間近で見ていたというのか。
「は事の顛末を詳細に覚えていたよ。犯人が現れた時間、犯人の背格好から肉親の殺し方、その順番まで、全部だ。恐ろしいほど冷静で、被害者当人とは思えないほど受け答えもはっきりしていた。こちらの方が戸惑うくらいだったな。だが、事件のショックは相当大きかったのだろう、しばらくは表情も乏しくて取り調べ以外では一切口を開かなかった。……だからつい心配になってしまって、私は頻繁に様子を見に行っては贈り物をしたよ」
椅子の軋む音に顔を上げるとマスタング大佐が立ち上がって窓の外を眺めていた。
「当時、彼女は未成年だった。ところが氏には親戚がいなかったから、私が後見人を探したんだ。……そのことで、は私に恩義を感じているのだろう」
俺はようやく彼女の「大変お世話になった」の意味を理解した。少しの誇張もなく、大佐は彼女の恩人だったのだ。あの笑顔の下にこんな境遇が隠されていたなんて、思いもしなかった。「そうですか」としか言えない自分の語彙力のなさに呆れてしまう。
「彼女が錬金術を学んだのもその後見人からだ。とても良い御仁で、を本当の娘のように大切にしてくれた」
「……光の錬金術を研究しているのも、その方の?」
「そうだ。彼も優秀な錬金術師だったが……にも才能があったからこそ、この短期間で国家資格を取ることができたのだろう」
事件は5年前、それから錬金術を学んだとして……多く見積もっても4年程度、か。それが早いのか遅いのか、錬金術を一ミリも学んだことのない俺には判断できかねる。大佐の口ぶりからすれば早い方なのかもしれないが。相当熱心に学んできたのだろう、ということはわかった。
「さんの証言があっても、犯人の目星はつかないのですか」
「はっきりと顔を見たわけではないからな。背格好だけでは……それに、子供の、しかも極限状態での記憶ということもあって、上の者たちはあまり重要視していなかったらしい」
「そんな……」
「私も個人的に当たってみてはいるのだが、今のところはなにも。だがが嘘を付いているとは思っていない」
「……私にも、なにか手伝えることがあれば仰ってください」
「わかった。そのときは頼んだぞ、ファルマン」
「……大佐、話してくださってありがとうございます」
「…………ところでファルマン准尉。お前、と付き合うつもりはあるんだろうな?」
「は……は!?なんですかそれ!いきなりなんの話ですか!?」
「おや、否定するのかね」
「いやだって……さんは大佐の事を……」
「……最近、私に会えばファルマンのことばかり話していてなあ。まさか結婚前に親離れを経験することになるとは思わなかったよ」
「え、なん……!?どっ……」
「ただし、ひとつ言っておくが……彼女を泣かせたらお前はこの焔で焼かれることになるぞ」
ぞわっと、背筋が総毛だつ。いや泣かせるつもりも予定も勿論ないが……大佐、目が据わってます。身の危険を感じてこくこくと必死に頷くと大佐はふっと笑ってソファに座り直した。
「ももう立派に独り立ちした成人だ。……だからこそ心配なんだ。無茶をしないか、無理をしていないか、一人で抱え込んでいないか……とね。お前がそばに居てくれるなら、も私も助かる」
紛れもなく本心を語っているということはその表情からも明らかだった。この人は本当に彼女を大切に思っている。
「もし、さんが私の助けを必要とするなら、もちろん手を貸します」
「それでは少し遠回しすぎるな。いいか、ファルマン。こういうときは『私が全力でさんを守ります』……これだ。言ってみろ」
「……それは本人に言うべき台詞では」
「私はの兄のようなものだぞ。なにもおかしくないではないか」
「…………って、さんにも言えませんよそんな恥ずかしい台詞!」
危なかった。一瞬乗せられそうになった自分が恥ずかしい。しかも大佐の方も悪ノリだったらしく小さく舌打ちしていた。
「まあいい。……ともかく、は今一人ぼっちだからな。私も昇進してからは多忙でそうしょっちゅう会いに行くわけにもいかん」
「後見人の方は、今はいらっしゃらないのですか?」
「ああ……少し前に心臓を患ってしまったらしい。が成人したのを契機に、田舎の家族と同居するために南部へ引っ越していったよ」
では、このイーストシティには本当に大佐しか頼れる人間がいないということか。
「ファルマン准尉」
急に真面目な物言いに戻った大佐が俺を呼ぶので、思わず背筋を伸ばす。
「をよろしく頼む」
「……はい」
すっかりぐしゃぐしゃになってしまった新聞を手に執務室を出ると、ドアの前でホークアイ中尉が立っていた。……そういえばいつの間にかいなくなっていたな。
「中尉、すみませんお仕事の邪魔をしてしまいまして」
「いいのよ。大事な話だったんでしょう?」
「……ええ……そうかもしれません」
自分でもよくわからず曖昧に答えたら、中尉は首を傾げた。喉の奥でつっかえて、出てきそうで出てこない。そんな感覚だった。彼女になにかしてあげられたら……と思っているのに、具体的になにをしたらいいのかはわからない。果たしてこれはただの同情か否か?そして事件の犯人は未だ捕まっていないのである。つまり彼女の中であの事件はまだ……終わってないということだ。
青空は誰のことも抱きしめない::行き場のない言葉