「大佐ぁ~、この前の子、知り合いなんすよね?紹介してくださいよ」
「……この前の……?」
「ちゃんですよ、ちゃん!」
その名前にぴくりと反応したのは他でもない、俺自身だ。ペンを持っていた手の筋肉が一瞬動いたせいで、手元の書類には余計な横線が加わってしまった。いやこの程度ならまだ誤魔化せるはずだ。そう判断して即座にリカバリーを開始する。
「ああ……で、紹介とは?」
「いやだから!俺に!」
「自己紹介ならもう済ませたんじゃなかったのか?楽しそうに話をしていたではないか」
なんだか微妙に会話がかみ合っていない。マスタング大佐は明らかにわかってやっている。ハボック少尉の再三の訴えも暖簾に腕押し状態。可哀想な気はするが、どこか安堵している自分もいる。そして同時に胸もずきりと痛むのだった。少尉は負けじととことん食い下がる。その不屈の精神は見習いたい。
「ハボック、お前には無理だ。やめておけ」
「……はあ?どういう意味っすか?あれでめちゃくちゃわがまま娘とか?」
「そうではない。彼女にはもう心に決めた男がいる」
――あ。今度こそ書類に修正不可能な縦線が入ってしまった。くそ、あとちょっとで終わりだったのに。仕方なく書き損じの書類を破棄して、まっさらな紙をもう一枚取り出す。
「えー……まさか大佐のことじゃ」
「は恥ずかしがり屋でなかなか首を縦に振ってくれなくてな」
「いやそれ、違うってことでしょ」
ははははは、と大佐の爽やかな笑い声が響く。ハボック少尉はこの間からずっとあの調子だ。常日頃から「彼女がほしい」と連呼している割にはどうも女運というやつがないらしく、良い出会いには恵まれていないようだ。そんな中に巡ってきたチャンスと思っているのかもしれない。さんの前では呆れるほど顔が緩み切っていた様子から、彼女は少尉の好みに見事合致したらしい。しかしまだ名前しか知らない女性を紹介してくれだなんて少し性急すぎやしないか?いや、さんはきっと良い人なのだろう。自分もまだ彼女とは数回しか会ったことはないが、大佐が随分気にかけていることを考慮すれば概ね齟齬はないはずだ。ただし、その気にかけている、が問題なのだが……。
事務作業中に雑念を許してしまうと処理スピードは格段に落ちてしまう。それでも俺は考えずにいられなかった。部屋の中で繰り広げられる上官たちの会話は嫌でも俺の耳に飛び込んでくる。それもさんの話題となれば猶更だ。名前を聞けばつい脳裏に本人の顔が思い浮かんでしまう。にこにこと自分に話を振る彼女の姿。遠慮がちにチョコレートを渡す姿。時々酷く申し訳なさそうに「すみません」と頭を下げる姿。……だめだ。相当重症なようで思わず頭を抱える。そんな俺の様子を見たフュリー曹長が「大丈夫ですか、ファルマン准尉」と心配そうに言った。
「いや、なんだか今日は手の調子が悪いみたいで……書類の作成もままならん」
ぐりんぐりんと手首を回しながら答える。雑念が邪魔で仕事に身が入らないのはその通りだが、手首の違和感も本当だ。
「ここ数日ずーっと報告書の作成ばかりでしたからね。腱鞘炎かもしれませんよ」
「なるほど。痛むというほどでもないが……念のため医務室で薬でももらってくるかな」
気分転換にもなりそうだ、と俺は席を立って医務室へと向かう。軍医が常駐しているわけではないが、いくつかの薬は用意してあったはずだ。途中、司令部の出入口に面した大きな窓のある通路に差し掛かる。ふと立ち止まって窓の外に目を遣ると雲一つない青空が広がっていた。それを見ていたら、こんな天気のいい日に職場に籠って仕事をしないといけないだなんて……などと少し憂鬱になる。これといってどこか行きたいところがあるわけでもなし。ただ、今の俺は公園のベンチにでも座って日がな一日ぼーっと過ごして疲れを癒したい気分だった。
憎らしいほど青い空から視線を落とすと、司令部の長い階段を上ってくる一人の女性がいた。……あれは、さんだ。今日は一体なんの用だろうか。大佐に会いに?いや大佐はそんなこと一言も……って、約束してたとしても俺にわざわざ予告する義理もないか。とにかく今彼女に会ってしまったら業務に更に支障をきたしてしまう気がしてならない。俺はそろりと窓際から遠ざかり、医務室へ飛び込んだ。腱鞘炎かも、と疑った自分の手首に外傷はない。本当に腱鞘炎かどうか自己判断などできないが、とりあえず違和感のあると思われる箇所に薬を塗る。意識してゆっくり塗っても、過ぎた時間はたったの2、3分程度。もしあの執務室にさんが来ていたら……と思うと戻る気にはなれない。会いたくない、というわけではないのだ。むしろ会いたいとすら思っていた。……さきほどまでは。もしかしたらさんの顔を見て少尉のように顔が緩んでしまうかもしれない。もしかしたら大佐と親し気に話す姿を見せられて今度こそ仕事にならないかもしれない。そんな得体のしれない恐怖。恋の始まりは晴れたり曇ったりの4月のよう――そう言ったのは誰だったろう。大佐か?いやそんなわけないか。誰でもいい。今の自分は正にそれだった。ふわりと優しい笑顔を思い出せば心が暖かくなり、大佐の口から彼女の名前が出る度に胸の奥がモヤモヤしてしまう。こんな不安定な状態で会うべきじゃない、と俺は柄にもなくサボタージュを決め込むことにした。
恋なんて美しくも尊くもない::変身