休日だからといって特にやることはない。深くはまっている趣味もないし、ふらっと街へ出てウィンドウショッピングなんていうのも性に合わない。ふと部屋の片隅に設けられた小さな本棚に目を遣って、そういえば新刊が出るなと思い至った。人に勧めるほどの名作ではないが、つい読み続けてしまう程度にはエンターテイメント性のある長編の物語小説である。一日中部屋でゴロゴロするしか予定のなかった俺はさっそくベッドから起き上がって外出の支度を始めた。
 イーストシティで一番大きな本屋は、俺の住む寮からは少し遠い位置にある。目当ての小説はすぐ近所にある小さな本屋にも置いてあったのだが、今日はなんとなく気まぐれでそちらではなく大きい方の本屋へ行くことにした。たまには散歩がてら遠出してみるか。
 途中の交差点でふと右を向いたとき、向かい側の道路にさんの姿を見つけてしまった。なんという偶然。いやまあ、同じイーストシティ住まいならそこまで驚くべきことでもないかもしれないが。彼女の方はこちらには気付かず、なにかメモを見て道を探している様子だ。と、その後ろからよそ見しながら歩いて来た男がさんへとぶつかっていく。しかも運の悪いことに男の手には酒瓶があった。さんは前のめりに転び、男は顔面に茶色の液体を被る。

「おい!よそ見して歩いてんじゃねえ!」

 男の怒号がこちらまで聞こえてきて、俺は急いで駆け寄った。

「大丈夫ですか」

 地面に座り込んだままのさんに手を差し伸べると、俺の顔を見上げて「あ」と呟いてから自分の手を重ねる。立ち上がったさんに怪我はないかと確認していたら無視されたと思ったらしい男が「おい!」と怒鳴ったのでめんどうだと思いつつ振り返った。

「よそ見していたのはあなたの方でしょう」
「な……なんだてめえ!いきなりでてきて、文句でもあるのか!?」
「はい。一部始終見ていましたので。後ろから彼女にぶつかってきましたよね?」
「その女がちんたら歩いてたからだろうがっ……!」
「あ、言い訳なら憲兵にどうぞ。なんなら今連れて来ましょうか。それから、もしあなたが訴えるようなことがあればこちらも治療費の請求をさせてもらいますので、そのつもりで」

 言っているそばから遠くの方に憲兵の姿が見えた。俺はあくまで冷静に淡々と告げてほら、と憲兵を指さす。男はまだ酒の残っている瓶を地面に叩き付け、盛大な舌打ちを残して居なくなった。その姿が完全に見えなくなった後で俺は再びさんと向き合う。

「怪我はありませんか?」
「いえ……だいじょうぶ、です」

 彼女はそう言ったが一応手を取って確認してみる。少し掠ったようだが血は出ていなくて、俺は掌に付いた土を自分の袖口で軽く拭った。服も土で汚れてしまっているが、酒がかからなかったのは幸いだ。しばらく放心していた様子のさんは急に我に返って「ありがとうございます」と頭を下げた。

「お恥ずかしいところをお見せしてしまいまして……」
「とんでもない。それよりさんが無事で良かったです」
「ありがとうございました。お陰様で助かりました」
「さっきの男が逆恨みで追いかけてくる可能性もありますから、よろしければ送らせてください」
「……そんな、ご迷惑は」
「今日は休日で暇ですから」
「…………じゃあ……お言葉に甘えて」

 困惑したように目を泳がせつつ、さんが頷く。少し強引だったか?しかし本当に尾行されて彼女になにかあっては後味が悪い。

「どちらまで行かれるのですか?」
「えーと……ここ、です」

 差し出された紙片を受け取ると、そこには地図が描かれていた。文字はなく、道と黒丸だけで目的地が示された簡素な地図だった。俺は記憶にあるイーストシティの地図とそのメモの地図を照らし合わせてみる。

「わかりますか?」
「……ええ、私の行く方向と同じようです」

 黒丸は俺の向かっていた本屋から目と鼻の先だった。……しかし、ここに建っているのは空き家だったはず。そんなところに一体なんの用事があるというのだろう。あまり立ち入ったことを聞くのもどうかと思い、詳しく聞けないまま俺たちはそこへ向けて歩き出した。

「今日は私服なんですね」
「休日なので、一応……」
「あ、そっか!そうですよね、すみません。軍服しか見たことがなかったので、つい」
「はは……そう考えるとなんだか不思議な感じですね」
「はい、知らない人と歩いているみたいで少し緊張します……」

 さんは俯いていてこちらからだとその顔は窺えない。自分で言うのも何だが、他人に緊張されるような男ではないつもりだったのだけど……。知らず知らずのうちに相手に威圧感でも与えてしまっているのだろうか。もしそうなら原因はこの身長のせいかもしれない。長身で良かったことといえば、高いところにも踏み台無しで手が届くことくらいだ。今も、こうして隣を歩いているさんとなかなか視線が合わずもどかしさを感じていた。

「あの……もしかして私のこと怖い、ですか」
「え、どうしてですか?」
「緊張されてると仰るので……」
「そっ……それはその、違います!ファルマン准尉は全然怖くないです!むしろとても優しくて……なんていうか、緊張、してしまって」

 結局そこに戻るのか。ともかく、怖がらせてしまったわけではないようで一安心だ。人見知りな性格なのかもしれない。そういえば最初に会ったときも大分おどおどしていたな。大佐くらい打ち解けてもらうにはまだまだ時間が必要らしい。
 時々短い会話を交わしているうちに、俺たちはさんの地図が示す場所の近くまで来た。思った通り、そこには一軒の古びた家屋が建っているだけである。その数メートル手前、俺の目指していた大きな本屋の前まで来るとさんが立ち止まった。

「ここで結構です。今日は本当にありがとうございました。……ファルマン准尉には、助けてもらってばかりですね」
「大したことはしてませんよ。それより、本当に大丈夫ですか?帰りは……」
「いえいえ!そこまでお世話になるわけにはいきませんから!大丈夫です、いざとなったら大佐を呼びます!」

 時々、強く拒絶されてしまうのはどうしてだろう。単に遠慮しているだけなのか本当の意味での拒絶なのかはわからない。もっと大佐のように頼ってもらえたら……って、まだそこまで親しくもないのになにを考えているんだ俺は。最近この手の妄想が少し酷いように思う。何故、なんて深堀する意味もないほどわかりきった理由があることに実はもう気付いていた。





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スクラップの街でさようなら::ハイネケンの顛末