ガシャーーーーン!実験道具たちがけたたましい音とともに思い思いに床へ散らばっていく。やってしまった……。私は金属やガラスたちがぶつかって奏でた不快な残響の余韻に浸りながらなすすべもなく呆然と立ち尽くした。運の悪いことに割れたガラスの破片が飛んできたせいで私の腕にはぱっくりと赤い裂け目ができている。手当……いやその前にこの事件現場みたいなのを片付けないと、中尉が来てしまう……。ようやく時間の動き出した私はまずなにをすべきか迷って室内を右往左往する。そのたび軍靴で踏みつけたガラスたちがじゃりじゃりと存在感を示すのでこれは現実だと嫌でも思い知らされた。と、とにかく中尉にバレる前に隠ぺいを……!中尉の心労を思ってではない。単に怒られたくない、呆れられたくないというそれこそ子供みたいな狼狽からだった。時間差で痛み出した腕の切り傷はなるべく気にしないことにして、部屋の隅から掃除用具を取り出す。ちょうどそのタイミングでパタパタと近づいてきた足音が実験室の前で止まり、「失礼します」という声と共に扉が開いた。ぎくりと動きを止めた私はその人物――ファルマン少尉とばっちり目が合ってしまう。

「あ」
「すごい音がしましたけど……って!なんですかこれ!」
「いや、これはその、ちょっと落としてしまって。すぐ片付けますからご心配なく!」

 手を振って一生懸命言い訳をするが、そうですか、なーんて引き下がってくれるはずもなく、ファルマン少尉は実験室に一歩足を踏み入れる。

「あーーっ!そこ、ガラス割れてるので気を付けてください!」
「……私も手伝いますよ、少佐」
「いやいいですいいです。こんなのすぐ片付きますし。そ、それよりこのこと中尉には内密にお願いできますか……」
「……」

 少尉は少し考えるようにじっとこちらを見た後で私の手からほうきを奪い取った。

「わかりました。約束しますから、少佐は早く医務室へ」
「……あ、いやこれは大した怪我じゃ」
「ご自分で行かれないなら……」
「……なら?」
「私が無理やり少佐を担いでお連れしますが、どちらにしますか?」
「…………行って参りまーす」

 なんかファルマン少尉、最近シュナイダー中尉に似てきたなあ。なんて肩を落としつつ私はしぶしぶ実験室を出た。医務室への道をとぼとぼ歩きながら、今回の敗因は上着を脱いでいたことだな、とさきほどの出来事を振り返る。実験中ならまだしも、実験する前に怪我をしてしまうだなんて不甲斐ないにも程がある。今日は厄日かもしれない。

「まったく……こんな大怪我するなんて、どんな危ない実験をしてるのかと心配しちゃったじゃない」
「……す、すみません」

 しどろもどろで事情を話すと先生は呆れながらも手当をしてくれた。消毒液がピリリと沁みて顔を顰める。

「あーあ、こんな深く切っちゃって。縫った方が良いかもしれないわね」
「……えっ!!??」
「冗談よ」

 この状況でその冗談は心臓に悪いです……。飛び跳ねた身体を再び椅子に預け、私は自分の腕が手当されていく様をじっと観察した。先生は一切の無駄な動きもなくてきぱきと治療を進めていく。まあ本職だから当然なんだけど。

「しばらくは痛むわよ。一応痛み止め持っていく?」
「お願いします」

 私が頷くとすぐに薬棚を開けて薬を選び始めた。包帯の巻かれた腕はじくじくと痛み続けている。シャツも血で汚れてしまったし……ていうか、よく考えたらこの血をどうにかしないと結局中尉にバレるじゃん。苦し紛れに腕を捲ってみるが、白いシャツに赤い鮮血ではどうにも相性が悪い。うーん、どうしよう。「お昼ごはんがミートソーススパゲッティだったんです」でなんとか誤魔化せないだろうか。とか考えているうちに先生から薬の入った袋を手渡されたので用の済んでしまった私は残してきたファルマン少尉のこともあるしとなんの解決策も浮かばないまま医務室を後にした。袋の中には1週間分の粉末。「足りなくなったらまたいらっしゃい」と言われ、まさか1週間もこの痛みが続くのか……!?とげんなりしたのは内緒だ。
 こう、めちゃくちゃ細~く袖を折っていけばうまく隠せるのでは……?などと帰り道でも悪あがきしていると前から熊……ではなく、バッカニア大尉が歩いて来た。機械鎧の交換だろうか。彼の右手に装着された物々しい戦闘用機械鎧が目に入ってそう推測する。バッカニア大尉も私に気付いて敬礼したので「こんにちは」と頭を下げた。

少佐、そこは敬礼でしょう」
「ああ、そうでした」

 日頃敬礼などほとんど使わないものだからつい。肩を竦めて見上げると「相変わらずですな」と呆れたような声が降ってきた。首痛い。

「大尉も相変わらず大きいですね。今日も訓練ですか?」
「いや、新しい機械鎧を手に入れたもんで、その試運転です」

 へえ、そうなんですかと相槌を打ち、大尉がドヤ顔で見せつけてくるその機会鎧を観察してみるが、いつも付けているクロコダイルとかいうギザギザのやつと一体なにが違うのだろう。機械鎧には一ミリも興味がない私には見分けがつかなかった。

「……少佐、また怪我ですか」

 突然大尉が私の腕に巻かれた包帯に目を止めて指さす。

「ま、またってなんですか!そんなしょっちゅう怪我してませんよ!?」
「そうでしたかな。つい先日も医務室で会った気がしますが」
「ああ、あれは実験中になにかあったときのために予め絆創膏をもらいに行っただけですよ」
「怪我するの前提じゃないですか」
「いやいやその時は怪我しなかったのでノーカンです!」
「……気を付けないと、中尉の胃に穴があきますぜ」
「うっ……!それを言われると私も大変心苦しくはありますけど……!」

 はははと豪快に笑ったバッカニア大尉が「では失礼」と再び敬礼して曲がり角へ消えていく。どうやらこの砦の兵士たちは私が中尉に苦労かけまくってる迷惑上官とでも思ってるらしい。一応それなりに配慮はしているつもりなんだけどなあ。
 なんだか腑に落ちないまま実験室に戻ると、私が豪快にまき散らした実験道具の残骸はきれいさっぱり片付いていた。その代わり、部屋の隅にはさきほどまでなかったゴミ袋が2つ追加されている。どうして私の部下はみんな揃って優秀なのだろう。あれか、上官がポンコツだと自然と優秀になるとかいうあの現象なのか。私が目を丸くしていると代わりに片付けをしてくれていたファルマン少尉が振り返って「どうでしたか」と尋ねる。

「……あ、はい、大したことは」
「そうですか。でも、今後はもう少し気を付けてくださいよ。私も中尉も、これでも一応貴女を心配しているんですから」
「はい……すみません」

 しゅんとして素直に謝るとファルマン少尉が肩を竦めた。怒っている様子はなく、やれやれ、と言った風に苦笑している。

「片付け、ありがとうございました」
「どういたしまして。まだ使えそうな道具はこちらに入れておきました」
「ありがとうございます」
「……汚れてしまいましたね」

 少尉の視線を追うと、私の腕……赤く染まったシャツをじっと見ていたので反射的に隠す。やっぱり目立つのだろうか。

「大丈夫ですよ、これくらいの血液ならセスキ炭酸ソーダで落とせますから」
「……セスキ……?」
「セスキ炭酸ソーダです。タンパク質を分解する効果があるので、ファルマン少尉も血まみれになったときは試してみてください」
「は、はあ……お詳しいんですね……」
「以前実験で大怪我したときに中尉が洗ってくれたんですよー」
「そうだったんで……って、実体験ですか!まったく……!」

 しまった!と口を押さえたが時すでに遅し。再びお叱りモードになったファルマン少尉が「その怪我が完治するまで実験は禁止ですね」などと無慈悲なことを言い出す。しかし今回は後始末させたりと迷惑をかけてしまったのでこちらも強く拒否もできず、私は項垂れて首を縦に振るしかないのだった。





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